2011年05月13日

無駄の向こう側

つい先ごろ新調したバスタオルが何とも、具合がよくない。
水分を上手く拭き取れないのである。

おろし立てのタオルが、しばらくは拭き取りがよろしくないのは
誰もが経験し実感することで、
仕方ないので、2〜3回洗濯して、生地に水分が十分染み込むまで
我慢して待つばかりである。

最近のタオルは機械化と効率化のために、織りやすいように
糊が使われているらしい。
そのままでは肌触りが悪いので、
この糊を落とすために、化学薬品を使って溶かし出す。

ところがこの時、一緒に繊維の中の油分も落ちてしまうので
繊維の柔らかさが失われる。
これを補うために、柔軟剤やさらに抗菌剤を付加して
新品のタオルは製品化されているようだ。

この配分と按配によって、具合のまずまずのタオルと
いつまで経っても、拭き取りがよろしくないものが
出来上がる。
やっと染み込み始めたかなと、思った頃には
ゴワゴワした手触りになってしまっていたりする。

これは、大変奇妙なことである。

安価に大量に生産するための方便としても
無駄が無駄を呼んでいるのであり、
結局、製品そのものの寿命を縮めている。

良質なモノを作り出そうとすれば、
手間と暇とたゆまぬ勤勉さが必要になる。

けれど、現代は
このような労を惜しまぬ「ひたむきさ」こそ
無駄であると、仕分けられるのであろう。

生産性とスピード化のための「糊」は
前提条件であるため、
その後の糊取りや、柔軟化の“無駄”の
積み重なった工程は、
必要悪となり、いやむしろ
その工程そのものが薬剤産業の需要を生む
訳なので、
利益が利益を生み出す拡大的産業構造に
適っているのである。

これは、原発の拡大的構造にも
よく似ている。
原発を維持するために、さらに
どうみてもコスト増の施設を追加して動かしている。
珍しく気を吐いて「治療院通信」の指田さんが
この辺の事情も、わかり易く
解説しているので参照していただきたい。
(白山治療院通信…左記リンク先)

現代には、価値ある「無駄」と
価値無き「無駄」が、あるようである。

拡大し、拡散してゆく「無駄」は、
利益を生み出す限り、「良きこと」なのであり、
どうも「変」だな、妙だなと
感じる平衡感覚は、無用な感覚なのである。


最近、我が家の猫の抜け毛が激しい。

後ろ足で、にわかにサカサカと爪を立てて
すき始めると、一度に
モヤモヤした毛玉状の毛が、バサッと床に
落ちる。

これが、床のあちこちに散在し
やがて、わずかな空気の流れで
部屋の隅のほうに丸まって、綿ぼこりのように
溜まってしまう。

何度となく掃除を欠かせないし
手間とこまめなメンテに、
気ぜわしい毎日である。

夏に合わせて、全身を毛で覆われている
生き物は、この時期
密集した毛を自然に、間引いて、
体温の調整を図っている。

一度にバサッと抜け落ちるのは
人間ならビックリするところだが、
彼らは、あるムズ痒さと抜けたときの
鬱散感に、心地良ささえ感じているはずである。

冬に向かえば、
また皮下脂肪が蓄えられ、毛もフカフカと
密集してくる。

自然な、きわめて自然な無駄のない
身体の知恵であり、営みである。

しかし、もしココに
これを何か、ビジネスチャンスにしようと
企てる人間がいるとして、
彼は、こう企画するのである。


毛が抜けたり、生えたりするのは
コレは「無駄」でしょう。
夏は毛の処理も面倒だし、冬は無駄に
食べて太って、食費も大変。
ですから、コレを
毛皮に替えて、夏物、冬物と着せ替えたら
どうでしょう!!
まず、毛をすっかり剃ってしまい、
「裸」の状態が彼らの常として
気候に合わせ、最適な量と厚さの毛皮を
着せるのです。

こうなりますと、
デザインも自由に選択できる、
色も形も好みに応じて、いくらでも
着替えれます。


そこには、実に多くの産業やサービスが
開拓される。
毛を剃るトリマーやら肌のメンテナンス、
毛皮は剃り上げられた自家毛を
ノミ、ダニ、抗菌処理して、
好きな色に着色されたものを使うか
人工毛皮が開発されたりする。

全工程をフォローするコーディネイターも
生まれるだろうし、
汲々として、表情を失い
無気力となったペットたちを尻目に、
さまざまな、サービスが
凄まじい勢いで、増殖してゆくだろう。

かつての起業キャンペーンを思い出す…


人間は何故、あわれな丸裸な状態が
常となったのだろうと、考える。

人は、体毛による温感調整を失った代わりに
「汗」をかく。

汗をかき、この汗が乾くことで
気化熱が奪われ、結果、体熱を冷やすのである。

これも実に自然な、外界と密接なつながりを
保ちながら、適応を図る身体の知恵である。

身体の持つ絶妙なバランス感覚と
調整作用は、きわめて素直に
物事に対して「快」と「不快」による
選り分けをするのである。

最初の無駄が、次々無駄を生み出す
構造をうさん臭く感じる心は
身体側の感覚であり、知恵である。

3.11以降の世情の動きようを
どう考えても、本当と思えないと
素直にいぶかしむ心は
実に、まっとうな「体感覚」に基づいているのだが…。
posted by 身体気法会 at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月01日

届かない未来

21世紀が明けた2001年の元日。

確かそのように記憶しているが…、
朝刊の新聞紙面に、
「東京電力、蓄電池NAS電池の開発に成功、実用化へ。」
と云う記事が、載っていた。

脱炭素社会の声が高まっていた時勢だったので
ひっそり片隅の記事だったけれど
タイムリーな期待を抱かせる記事であった。

NAS電池というのは、東京電力と日本ガイシが
共同開発した、きわめて高効率な
蓄電池〜電力貯蔵用ナトリウム−硫黄電池
であるという。

太陽光発電装置などを自宅の屋根に載せると
発電した電気を、
蓄電できないと云うことに
まず、驚く。

そこで、仕方なく余った電気を
電力会社に買い取ってもらうわけである。

しばらく前までは、電気は
低迷景気もあって、電力余りの状態だったので、
欧州などに比べれば、桁違いの
安値で売電されていたが、
今は、ほんの少し売価が上がったようではあるけれど、
それにしても、
作られた電気が蓄電されずに、利用が無ければ
放電されて、そのまま消え去ってしまうに任せると云うのは、
どう云うことなのだろうと思う。

実際には、発電量を調整して
余り状態をゼロに近づけているようだけど、
原発のように、大量電力の発電能力を持った
施設においても、蓄電というものが
適わないという状況は変わらないようである。

驚くべきことである。

まだ技術が追いついてないのだから
仕方が無いよ、と云うのだろうけれど
実際には、知恵も力も傾注していないからだけに
過ぎないだろうと思う。

今回の想定外の大事故にしても、
実は、想定外でも何でもないといえることで、
実際は、コストと儲けから線引きをして
これ以上先は考えない!と、
思考と推論を止めたところから
始まった「想定されうる」瓦解ガカイだった
といえるのである。

原発というのは、
連鎖して巨大化する核分裂反応を
水を使って、反応速度を緩め、
やっと少し扱いやすくなったところを
沸騰した蒸気でタービンを回し、発電をするという構造的な
問題から、海に沿った位置にある。

この蒸気を冷やして、ふたたび水にするための
冷却には、海水を利用するので
海水は常時、外部から取り入れ、海に排出されている。

構造的にこの海水は、内部の循環する水とは
直接触れないのだが、一次冷却水の細管などが
ひび割れてしまい、何度も放射能汚水漏れ事故が
あちこちで起きている。

今回の低レベル放射能汚水の排出や
高濃度汚染水の流出など、
海と常時、やり取りをしているのであるなら
もっと幾重もの防護壁を広範囲に
設置していればと考えるし、また不可能ではなかったはずだが、
「思考」は停止したままで、
届かない未来として、
予想されうる未来を
封印したまま、今日まで来たのである。


人は、方法を考えようと思えば
何らかの解決策を見出せるものである。

問題を限定的に絞れば、
現時点での解決策を見出し、
その実行によって、問題点を表面化させ、
軌道修正できる、
これが人の知恵というものなのだけれど…、
最上で、
最適な答えを見出せたからといって、
その通りに、動き出せないのも
また、人の性サガともいえ、
業ゴウともいえる。

いや、それが
最も最高の答えだとすると
それに背きたくなるのも人なのである。

あるべき未来は、そのように
遠く届かないのである。

安易で簡易で、即席な、
そして結果がすぐに手に入るものに
取って代わられるのである。


私たちの心は届かない未来にあり、
私たちの身体は行くべき道を示しているのに、
である…。




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2011年04月24日

共鳴のゆくえ

不可思議な身体現象が続いている。

広義な同調と云うものなのだろうけれど、
「情報」というものが、身体に及ぼす影響としてみても
大変、興味深い…。


3月の20日を過ぎて、ここ静岡では
めまいや動機、身体の不調を訴える人が、
急激に増えた。

しばらくすると、原因不明の発疹やじん麻疹、
指先を切ったり、嘔吐、吐き気の続く発熱やらが
増えてきた。

やがて、それから頭を打ったり、切ったりなどと
云う人たちが続いてくるのだけれど、
これらは、上に上にと気が集まりやすい季節も伴って、
最近にいたるまでの顕著な体勢なのである。

このような傾向が、
東京近郊では、3月11日から3週間を経て
次第に現れてくる。

これらは、時節の運行と複雑に絡まりあってはいるけれど、
ほぼおおよそが、3月の震災の影響が深く身体の奥に刻み込まれた
ものが、やっと表面化されて排泄されてきた過程で
あるといえる。


3月11日、当地でも震度3程度ではあったけれど
今まで経験の無いような異様に長い、長い
ゆっくりした、ゆらーりゆらーりとした
揺れが、いつまでもいつまでも続いたのである。

最初、地震かなと思っていた人も
あまりに長い間、揺れ続けるので
これはめまいの一種か、自分の身体が変調をきたしたんだろうか…
と、惑わされたのである。


未曾有の、というに、まさにそうとしか言いようの無い衝撃が
およそすべての人の心身の奥深く
刻み込まれたのだと思う。

地震直後にTV映像によって、映し出された
津波のみるみる浸水し、家も畑も道路も橋も
飲み込まれてゆく様は、
妙にしんとして、ふさがれた様な
薄暗い灰が侵食してゆくようなモノトーンの
静けさに包まれた衝撃であった。


関西においては、よみがえり変調が
増えたという。

記憶の奥にしまいこまれた心的外傷が
同調して、浮き上がってきたのであろう。

記憶がよみがえったと云うだけでなく、
実際に変調をきたしているのである。

身体は、その時その身体が処理しきれない
ショック、衝撃というものを
ストックし、しまいこんでおく。

心的な打撲というものだけれど、
事あるごとに、ちょこちょこと小出しにして
復元を図るのである。

けれど、今回のように
予想もしない衝撃が、心の深層の水脈を激しく揺らして
表層に溢れ出てしまうことがある。

この遠方にしてそうなのであるから、
直下にて被災し、非日常的な環境の中で、
いまだに余震にさらされている
方たちの、その刻み込まれた衝撃の奥深さは
いかばかりであろうと思う。

しかし、それは心の打ち身として
奥深く確実に刻み込まれ、たたみ込まれてしまっている。



さまざま変調の現れだした頃に、
気をつけていないと、見過ごしてしまうような
変調だけど、きわめて注目される事例である
右下腹部の痛み、盲腸辺りの異常を
訴える人たちがいた。

この人たちは、
ある特徴的な反応が、その途中で痞(ツカ)えてしまったがゆえに
痛みとして、違和感を感じているのであるが、
実は今、ほぼすべての地域の
どんな誰でも、
この特徴的な反応が、
どんな誰の身体にも見出される、
不可思議な現象が、
この右下腹を中心とした
動きとして、
陰々として続いているのである…。



posted by 身体気法会 at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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