2011年09月25日

「トキ」する合間に

台風が去り、
めっきり秋めいてきた。

痩せ身の私などは、
寒いな、と
肌を外気にさらしたくなくなる。


台風一過の外気温の低下で
数日前から、ギックリ風の腰痛に
見舞われる人が多発している。

あっ!と云う、メリハリの利いたギックリでなく
どうも、何だか、腰あたりが変だな、
あれ、ちょっとまずい痛みかなと、
思ってる間に、動けなくなるようである。

「じんわりギックリ!」とも云うべき
腰痛がこの秋の特徴らしい。

冬に備えての
骨盤の変化が起こってきたと云うことであるけれど
夏の置き土産の
胸の硬張りを、残したままなので
どうもスンナリ骨盤が閉じていかないためだろう。




この秋の気配…、
風の中に、秋の匂いが混じり、
落ち着かない夏の心のざわめきが
しゅんと納まってゆく

秋の気配は空気にある、
その音にある。

空気の密度が高まるのである、

夏の開けきった、空気の粒子が
収束されて、肩を寄せ合い
静かにたたずみ始めるのである。

音も同じである、
まばらに散逸してゆく
密度の薄い音の響きが
しっくり歩速をゆるめて、
お互いの間合いを縮めあうのである。

縮みあい密度が増した空間は
シャープだ。

ちょうど、夏のフォーカスが
何もかも開いていって、拡大された
荒い画素だとすると、
粒子間が狭まった秋の空気も音も
何処までも澄んで
静けさと不思議な近視感がある。


空も何処までも青く、ただ青く、
広場のベンチに仰向けになって
見上げると、視界には
この「青」だけしか入ってこない。

遠いのか近いのか、
すぐ目前に空の青があって
手に触れられそうな
錯覚に、眩暈を覚える。

世界が裏返ってしまう、ような
めまいである…


この落ち着いた気配、
何かが納まってしまった安堵感みたいなもの…
この、秋の
まさに秋としかいえない風情

ちょうどお祭りが終わった翌日の朝のような
ハレの喧騒の酔いがしっくり醒めて、
もの寂しさとちょっとした疲労感、
それをほんわり包む休息感に、
このままボンヤリじっと箱の中にでも入って
寝ていたいと、
思わせる収束感。

この秋の感覚とは何だろう。


「時間」と云うものは
現代人にとっては、
過去から未来へ、止まることなく
永遠に、うるうる伸び続ける
一本の道のようなものだと感覚されるものだけれど、

実は、
出たり入ったり、
発生したり収束されたりと…、
決して尽きない一筋の流れ、と云うだけのものでは、
無いのである。

時間は、必要なときに
トキ化されて、生まれるのである。

「トキ」はいつでも、一定運動を
続けるものではなくて
速度も運行もまばらであり、
収束されて待機している事だってあるのである。


気配が残ると云うことが、ある。
ガサガサ動いて残るのではなくて
佇まい〜タタズマイとして
感じられる、

この空間か風景に納められた
記憶が、気配として
気の記録として仕舞われたのである。


おりしも先日、
光より速い物質、ニュートリノが観測されたと
ニュースで報じられた。

光よりも速いということは
現在から過去に、遡った「時間」の中にあると
云うことなのだと言う。

タイムトラベルも可能だと
真顔で解釈する学者もいる。


しかし、もう何万年も前から
身体は、気の記録を
所蔵する蔵〜クラなのである。

納められた時間の
ファイリングされた
アーカイブである。


何時でも、
取り出し、今まさに
起こりつつあるかのように
調整も出来る。

養生とは、
コレをいかに納めるか、
「トキ」化して
取り出しつつ、整えるかと、云う
この二つの事に尽きるのである。



秋は、
「トキ」する合間の
その消息を
聞こえない声で
まことに静かに
私達に呟いているといえるのです…。






posted by 身体気法会 at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月20日

突き抜けてしまった「何でもなさ」

「現実とは思えない…」

3月の後半、広島大学と京都大学の合同学術調査団が
福島原発から30キロをまたぐ飯館村の放射線量の測定中に
ふと、漏らした絶句である。

その後、京都大学の原子炉実験所は「とても人が住めるレベルでは
ない」と、国会での報告会で事態を警告している。

調査団が予想も出来ないレベルと
言葉を失う様は、NHK教育「ネットワークで作る放射能汚染地図」
の中に、ひっそり納まっている。

同じNHKのNスペ「シリーズ原発危機 事故は何故深刻化したか」
では、3月12日のベント、格納容器内の蒸気の放出のさいに
東電社員が、「もう、終わりだ」と漏らす姿が、数秒の場面に
刻まれている。


誰も予想しえなかった激震の起こった翌日未明に
たたみ掛けるように発表された福島原発の異常発生報告。
物々しい政府対策本部の会見中にこぼれ出た、
「ベント」と云う聞きなれない文言は、
一般的にはその時、どう捉えられたのだろう…
少なくとも、当事者である東電の中においては
「震撼」の一言に尽きたのである。

今まで、漏れ出ることさえ細心の注意を払ってきたものを、
絶対に外に出てはならない格納容器内の蒸気を、
外界に放出するなど、とんでもない!を、越して
あってはならない現実であり、「終末」の様相なのであった。

驚くべきことが起こっている!
信じられない事態に私たちの世界は放り込まれる!!
これが、当事者、関係機関、専門家の
最初の、率直な心情であったのである。

けれど事態は炉心の冷却水の水位低下と云う非常事態に陥っており
炉心溶融の懸念の方が圧倒的に強く、
圧力を下げるためのベントは不可避と云う情勢に追いやられていた。


何事も無いかのようにベントは実行され、高濃度に汚染された
蒸気が放出される…

境界が崩壊した瞬間である、


人は、もの事を現実化させるにあたり、
空想がまず、動き始める。
空想を検証して具体化してゆくと、ほぼ同時に空想の
外側に「禁忌」が生まれる。

これが、空想を現実の「もの」「こと」とする「イメージ」の境界を
形づくり、その界面がもやもやした暗い想念を離れて
ポトっと現実に、
産み落とされるのである。

「禁忌」は、常に向こう側に退きながら、かつこちら側に
噴出させる揚力を与えている。

超えてはならない境界を、人は作る。
頭に広がったイメージを、次の行動に結びつけるために…。
そして、そのイメージが生命をおびやかす
危険を伴うものであったなら、
なおさら強力な禁忌の退避方向が深まるのであるが。



もともと、原子力とは、人が手なづけ利用するには
あまりに危険であり、畏怖すべきエネルギーなのであった。

けれど、鼻先に火を点けて、平気で煙草を楽しむ
人においては、
他の生き物が、絶対に近寄ろうとしない
「禁忌」でも、その境界のラインを
押し広げてゆくのである。

「禁忌」とは、見えないがゆえに怖ろしいのであり、
現実に現れていないがゆえに、強力な牽制力を持つ。

しかし、漏れ出た放射性物質は、現実と思えないほどの
高濃度であっても、
急性の放射線障害を引き起こすほどの爆発的な急進性を
持ち合わせていなかった、

ひたひたと、まさにひたひたと
身体をむしばむ、私たちの心情のリズムより
かなりゆっくり障害を及ぼすものだったために、
その「何でもなさ」に、
わからないな、これなら何だか感じられないじゃないか、と

見えないものの「禁忌」の現実化に
気が付かないフリが出来たのである、
無頓着を決め込むことが出来たといえる。

「ゆで蛙」、低温でじわじわ茹でられるため
蛙は気が付かないうちに、もがきも慌てもしないでいるうち
やがて茹であがり、死にいたる、と云う
事故直後、少なくない人たちが
日本の状況をたとえた、この象徴的な状態に、

この突き抜けてしまった「何でもなさ」のために

私たちは、退くことも進むことも
適わない、この今の「現実」に追い込まれてしまった、といえる。


よく判らない、目に見えない、毒性がすぐに表れない、
もののため、
多くの人にとっては、現実化して空に舞い、海に浸透し、
作物に降りかかり、食物に侵入しても、
実態が見えないために、

まだ「禁忌」であり続け、同時に「何でもない」ものとしてある。


しかし知識を持ち、アカデミックである人ほど
この「何でもなさ」に
仕方ないじゃないか、と云う諦念と
これくらいなら、方向修正しなくてもよいのじゃないか、
と云う「根拠の無い理由」を
与えているのである…







posted by 身体気法会 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月06日

無用の用

人は歩く。

二足の下肢を使い、どう考えても重く大きく
なりすぎた頭を支えて、
巧みにこの重量を分散させながら、
歩く。

早足も小走りも、場合によっては横歩きも後ろ歩きも
スキップだって、難なくこなす。

このような歩行の
日常何気なく行っている動作の裏には、
常時、休むことなく無意識の裡に
調整、配分されている
錐体外路運動系の働きがある。

錐体路というものが、主に意識的に
動かせる神経路であるので、
本人が知らず知らずのうちに
身体の方で調整をとって、難なく無事に
運動が維持遂行されるように
調整を図っているのが錐体外路である。

随意運動を統御する錐体路が
脳から脊髄に伸びる神経路で
あるのに比べ、
錐体外路と呼ばれる経路が何処にあるのか
よく解っていない。

脳の広範囲に及んでいるようで、
何がどのように信号を送り、連絡しているのか
本当のところは
その詳細が不明なのである。

正体をつかめない、よく判らないものだから
錐体外路という云う呼び名はやめようと
云うのが、最近の傾向であるようだけれど、
それはやがて、補足的な運動系の働きだぐらいに
扱われて、
その存在に注目した当初のように
障害が現れたときのみ、
人々の意識に上るくらいになってしまうのであれば
私たちは実体の無い、
幻影みたいな存在になってしまう。

無意識のうちに
あらゆる動作や思考、発散や抑制、
生きてあることの
ほぼ8割くらいをつかさどっているのが
錐体外路とぼんやり呼び慣わしている
無意動作なのである。

無意動作。
ちなみに、
何処に重心がかかっているのか
感覚しながら、
歩いてみると、
これが、常に一定でなくて
実に自在に足の裏のわずかな領域で
あちこち重心移動していることに
ビックリするのである。

たとえば、
キーホルダーひとつを右手にぶら下げ持って
歩いたとしても、
重心は左足に移動する。

持ち替えれば
逆の足に移動するのである。

元気なとき、前向きな時はそうでも
草臥れてくると
今度は、同側に変わる。
右手に持てば、右足に重心が乗る。

さらに、へとへとで
気が進まぬとなると
両足のかかと部分に重心は後退するのである。

当人はまったく
気が付かぬうちに
精妙な微調整が、途切れぬこと無く
常に影のように付き従い、あるいは先導して
あらゆる動きの過不足を
補っている。

意識のあまりに
おおざっぱな指令を
どんな状況下であろうが
完全を目指して、
補足し手当てする、
無意の意思によって
誰にも知られず、
無用のものと思われていても、
黙々と
静かに涼やかに
目的を成し遂げるのである。

無用の用。

目に見えるもの、
形に表れるもの、
結果が出るもの、
量的に増加するもの、減退するもの、
有用のものをしか
感覚しない感受性の持ち主は
このような
無用の働きに心が至らない。

無意味とされるもの、
無用と捨て置かれるものの
たたずまいに
意味を見出せない現代において
けれど今、
象徴的に陰ながらの
こつこつとした作業を日々続ける
身体がある。

私たちの
今の、まさに今の
身体が行なっている
未曾有の事態への、
環境への実に的確な
対応を言うのである。


実に神妙に精妙に
調律されるものは
何であろう。
何処を目指して動いてゆくのであろうか…
posted by 身体気法会 at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする