2012年03月06日

命を動かすもの、蠢くもの

二月になって、ニャオワァンと言ったきり
家を飛び出し夜陰に消えてしまった
我が家の猫のハナテンが、
4日して帰ってきたと思ったら、
すっかり人相(猫貌)が変わってしまっていた。

猫にはまぶたの内側に瞬膜と云うものがある。

目を閉じると左右から張り出してきて
眼球を保護するのである。

目を開ければ、普段はすっと隠れてしまうものなのだが、
その白い瞬膜が、目頭から張り出したまま
引っ込まないでいる。

目が小さくなってっしまい、何とも目つきがおかしい、、、

猫には、ときどき
見られる症状のようで
猫の病気辞典に載っている。

けれど、眼病にともなって出てしまうもの以外
何か精神的な原因によると、
理由がはっきりしない症状のようである。


年が明けて以来、
彼は落ち着かない日々を送っていた。

ガツガツ食べ、プイと何処かに出て行ってしまう。

一日中、ソファか段ボール箱の中で寝ていた
頃とは、まったく変わって
何か、せかされたように
あちこち動き回っている。

彼を、突き動かすものは
何だろう、、、、


白い瞬膜にフチ取られてしまった
只者で無いような相貌は
この世でない非日常の世界に、
見開かれているようである。

彼は、生まれて
2年は経ている成猫である。

逞しくしなやかな体つきである。


1年目の春を過ぎてしばらくしてから、
ちょっと大人の身体になりかけて
近くにいたおばさんやらおばあさんに当たる
メス猫に、
近寄っていったが、
すでに季節は去ってしまっていた。

彼女らのお腹にはすでに
命が宿り、
まったく相手にされず、
ふうふうと、あからさまに怒られて
近寄っては、追いやられして
つかの間の遅れた春を
悶々と過ごしたのであった。


しかし、
この春の彼のただならぬ勢いは
まったく去年とは違う。

この辺りにメス猫は少ない。
去勢されて、家の中にいたりして
オス猫たちの争奪競争の
涙ぐましい努力が、思いやられる。


目と云うものは、
骨盤の動きに関係している。

開き縮みに関連し、
骨盤神経の動きにも連動している。

骨盤の最も大きな動きを要するものは
性的な運動である。

性を果たすには
十分な縮み運動がタメられなければ
ならないし、
果たしたときには、
大きく開くのである。
そして、深い眠りに落ちてゆく。


このタメの縮みがうまくいかず、
片側が開いたままで、なかなか縮めなかったりすると
性的衝動は、食欲に
転化される。

食べても食べても
食べたくなる。

縮み、タメが十分で
まったく問題が無くても、
相手にめぐり合えず、そのまま
ずっと悶々としてもだえながらも
なお、禁欲を強いられると
縮んだまま、勢いが抜けてゆく。

衝動が枯れ、
性的エネルギーは睡眠に転化され、
ひたすら眠たくなる。

しかし、
縮んだままで
硬張り、動かない骨盤は
目を一回り小さくし、
異様な光りを灯す。

暗く陰鬱にさせ、
かさかさした皮膚と心に
変わってゆく。


二月の終わり、
彼の瞬膜は赤く腫れただれて
涙目でぐしゃぐしゃになってしまった。

ほとんど閉じたままのような
両目には、でも暗い光が
あいかわらずチロチロ燃えくすぶっている。


食欲にも、底なしの眠りにも
転化しきれない
彼を突き動かすものの
むやみで混沌として、
際限の無いエネルギーに驚く。

キワを超え、加減を知らず、
ただただ、無放縦に蠢く
突き上げる強力な「力」に驚く。


私たちの
虚栄もひたすらな頑張りも
大げさな感激も
自惚れも
無鉄砲な勝負も
この、
混沌としたカオスのごとき
エネルギーによるものである。

しかし、
生命を輝かせ、その息吹を
途絶えさせない
永遠性を希求するものでもあり続けるのである。

死への
導き手でもありながら、、、、


昨日、5日ぶりに
戻ってきた彼の目は
元のようにすっかり、きれいに戻っていた。
出ずっぱりの瞬膜は
まぶたの内側に納まり
大きく透きとおった無垢な目を
取り戻したのだ。

無事、果たすことが叶ったのか
消息は知れないけれど
彼の短く、けれどせん無い
春は終わったのである。



posted by 身体気法会 at 11:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月19日

お知らせ 〜身体ゆらり講座について

HPの更新が遅々として進まず、
どうにも間に合わないため、
このブログ欄を借りて、
告知することにしました。

季節は、また
かさついた日々が続いております。

先般の祝日に春めいた様相を見せたかと
思うと、ここ数日の
荒れた天気は、
心まで冷え冷えしてしまうようです。

先日の「春めかし」は、
けれど明らかに身体の裡側に
春の蠢動の着火点とは、なったのです。

今は、春の動きの中で
外気の厳しさに耐えるという
非常にアンバランスな
綱渡りを身体に強いているといえます。

脳の血行や
胸郭の痞えが表面化するのです。

のぼせた状態で
身体を縮めないといけないので
心理不安が過度となりやすいようです。


身体の春を、裡側から
少しだけ開放して
眉間を開き、胸の真ん中が開けゆくように
身体のゆらり、ゆらりとした
うねりに任せる
運動を行いたいと思います。

近々で申し訳ないのですが、
来る1月22日(日曜日)
下記、会館にて
「身体ゆらり講座〜活元運動の会」
を、開催いたします。


参加は自由ですので、
気楽にどうぞ、ご参加くださいませ。


『Vol.3 身体ゆらり講座〜活元運動の会』

開催日 … 2012年1月22日(日曜日)
          午後2:00より5:00頃まで
                                    

 全く初めての方も受け付けております。
 身体が動かせる楽な服装でお越し下さい。

 その他、不明な点については メール にてお問合せください。
             {s-kihou@ab.auone-net.jp}



 ◆場所  … 東京 中央区立産業会館 和室
       (〒103-0004 東京都中央区東日本橋2-22-4)
        TEL 東京03−3864−4666

        所在地案内
        http://www.chuo-sangyo.jp/access/access.html

 ◆時間  … 14:00より17:30頃まで

 ◆参加費 … ¥1,000



以上、お知らせでした。

posted by 身体気法会 at 15:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月08日

背く心

年をあらためると云うのは
日常の惰性にクサビをひとつ打って
ふっと集注を心に呼び起こすことで
うるうる涯てなく続きそうな
日々の生活に、
節目を与える素晴らしい発明であると
整体創始者、野口先生がかつて
語っている。

人は、年の変わらぬうちにと
せっせと身辺を整理し、たまった穢れを
ぬぐい、祓って
清々した心持ちで
新らたな年を迎えようと
するのである。


けれど、こうありたい
と、願う気持ちに
背く心が、必ず背後に
隠れひそんでいる。

かくあるべき、が強ければ強いほど
それとは反対の
行動や情動がむくむく動き出すのである。


多くの日常的な家族が
一年を通じても相当の長い時間を
久々に一緒に過ごすのであるから
そうそう、お互い気持ちの良いことばかり
起こる訳では無い、
とくに、頭にも身体にも
過剰な情報が押し寄せる現代にあっては、
人々の、耐性は萎えている。

さまざまな紛争が起こらざるを得ない
格好の状況がしつらえられている
のである。



このような
鬱積した情動の噴出口として
年の瀬や年始まりには
儀式が用意されている。

かつての世なら
寒夜に鐘が響き始めれば
普段とは違う、非日常の扉が開かれ
冷たい夜気も、家外にふたふた、
人連れが歩いて行く足音にも
まっさらで澄んだ
なみなみ溜まった瓶の水のような
静やかな心持ちが訪れたものだが、

今は、
このような細やかで密度の濃い
集注に、
身体が耐えられないのだろう。

年を経るごとに
にぎやかで喧しく
自分の情動を放出させる
カウントダウンやらの
発散型の行事が増えている。


それはそれで、
人々の身体の知恵と云うものでもあるけれど、
非日常の儀式性に
寄りかかることで、
鬱散を果たそうとする一群の人々は
鬱散そのものが目的であるため
極度に視野が狭い
儀式性に埋もれていってしまうのである。

そのため
「かくあるもの」が、「かくあるべき、」
「かくあらねばならぬ!」になり、
心をしばる枷カセの圧力が増して、
他者にまで、それを
強いるようになる。

その「かくある」べきから少しでも
はみ出す事や、脱するものがいれば
容赦はしないのである。


ここに「権力」と云うものが
発生する。
他者を、自分や型(法)によって
思い通りにしようという情動である。
「暴力」と云うものの、原初の
始まりがここにある。


元日に
奥さんや子供を殴ったり蹴りつけたりのDVが
多く、あちこちで発生した。

奥さんや子供の些細な
何らかの逸脱が、
目こぼしできなかったのだろう、

傍目からすれば
正月早々、元旦早々、仕様が無い悪たれだと
呆れるけれど、

問題なのは、
当の本人が暴力に、悪気が無いことである、
悪いのは逸脱した者のほうで
自分はそれを、断罪したのだと
どこかで思っている。

このような人々は
何かに寄りかからないかぎり
自分と云うものを
保てないのである。
不安定で脆弱な心を持っている。

絶対的で、個人の力では
どうにもならないような
象徴的な何か、
よりかかれば寄りかかるほど
噴出エネルギーが
圧縮され、暴力の影は大きく
膨らんでゆくのである。


このような寄りかかる人も
そこからはみ出してしまう人も
けれど、
その心は
良かれという事柄から
背こうとするのである。



「かくあらねばならぬ」のクサビが
自分自身に、深く
打ち込まれてしまうと、
自らを世界から抹殺しようと
鈍い漆黒の情動が、
発動する。

年の変わり目に
命を絶つ人たちが
続出したのも
「めでたさ」に
背かざるを得ない
薄暗い情動の蠢きウゴメキを
とどめることが出来ない
人の心の
「どうにもならなさ」
が、かかわっているのである。


めでたき事が
めでたいのは、
三分の荷を背負いながら
五分の何も無い「心の間マ」を
持てる人が
何も無いがゆえに甘受出来る
ゆらゆら逃げこぼれてしまう
綿毛のような
はかない光だからなのである。


心を整除し
まばらに黒々、固着した
鬱滞エネルギーの塊りを
解ホグしといて
空き容量を
増やしておくことが
年始まりの心得だといえる。



けれど、
この新たな年に
こうも背き、背かれた
人々が多発したのは、
また特別の事情があるに違いないのである。


2011年は
一年を通し、
から元気をあおるより
深く沈み、黙考し
「喪」の沸き立たない
暗い清明な
心を保つべきであった
といえる、、、、



posted by 身体気法会 at 18:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする