2012年05月15日

言葉に流れ込むもの

人が言葉を生み出したやむを得ない事情とは、
圧倒的な「余力」を、掴み取ったからだろうか、、、、、



人の「言葉」とは、単なるコミュニケーションではない、
意思伝達の手段としてのみ、
発達したわけではないのである。


その草創期には
1対1のコミュニケーションより
集団生活のある決まりや規律を
象徴させるために
発明されたのかとも思えるが、
威嚇に使うには、
まどろっこしいし、
神性を付加したものであったなら
ここ一番で使うしかないから
頻度が少ない。
禁忌タブーも発明しなければならないし、
とても、
バラエティー豊かに
枝葉が発達して行ったとは
考えにくい。

「言葉」が、共通した思念を
興起させるには、
意味の信号を送り返さないといけないと云う
ワンクッションの手間とタイムラグが発生するから、
「言葉」の使い勝手は
原初の生活においては、さほど便利とも
言えない。


「言葉」がもし、種族保存のための
オスからメスへの、ウーイング的な
誘引のための道具として発達したなら
オスの言葉は、多少無意味な誇張の意匠を
まとっていたとしても、
もう少し、まっとうに
メス〜彼女らに、届くはずなのだが、、、
メス〜彼女らは、
およそ、見当はずれのイメージでもって
それらを、受け止めている。



言葉が、伝達の手段であるとしたら
もう少し、効率的に
相手に届かねばならない、、、
けれど、
言葉は、言葉として受け取られるわけでなく
言葉の表象として受け取られるのだ。


言葉のしずくが
受け手の心にぽとりと
玉になって落ちる、、。
このしずくは朱色の玉なのかもしれない、
けれど、受け手の青い心の桶水の中に
落ちた瞬間、紫に混じり合ってしまう。

受け手は、紫の玉に
さらに、連想のくさりを繋げてゆく、、、

人は、このように
言葉を言葉として受容できない。


アプリをダウンロードしながら、
アプリの表題に
引き寄せられた受け手の心象の滓が
インストールに交じり合いながら
意味を付与してゆくのである。
インでなくて、
アップロードして言葉を受け取ったつもりになる。

このことを
かつて幻想と呼び、
個人の幻想領域から
対幻想と共同幻想に分化してゆくことを
証左した時代の旗手がいた。



言葉が強力な力を持つのは、
共通した時代の思念とも云うべきものを
共同の表象として
掲げられたときだけである。

時代の気分を
まさに代弁する、そのときその時にのみ
旬であり、すぐに色あせ消えてゆく
「流れの言葉」と云うものがある。

いくつも現われては消え、
消えては、また別の言葉をまとって
表われる、、
先進的で創造的な人々が、
時代の動きの、波打つ機運を感じ取り
かすかで、不確かではあるけれど
掴み取っては、象徴させる「言葉」である。

しかし、この「流れの言葉」は
人々に認知され、共同の表象に代わったときには
すでに、実態が消え去っている。
人々が、時代の言葉として使い始めたときには
すでに、終わった言葉となっているのである。


ちょっと前には
化学反応〜ケミストリ、と云う言葉が
コレを担っていた。

この合い交えそうに無い異種のものの
交感が、まったく予想もつかない
展開を生み出すと云う
この感覚が、活きいきとした
次の時代の気分を予感させた。


「流れの言葉」が、
共同の表象にすり替えられたとき、
この強力な時代の「言葉」は、
人々の思念や欲求の鬱散を吸い込み、吸い込みして
大きく強大なブラックボックスに
変じてゆく。

創造的であること、自ら言葉を選び取ってゆくこと、
内省的であること、感覚を正しく意識に上げること、
すべてを吸い込んで、
段取りを飛ばして、単純化し、短絡化し、
モサモサ考えなくても、とりあえず
使っておけば、やり過ごせるような
そのような強大で頑迷な「言葉」に変わる。



この一年、
まさにこのようにして
もやもやした時代の気分をどう
表せばよいのか、時代の旗手たちが
迷っていたさなかに
ひとつの言葉が表象化されている。

言葉自体は、多くの意味を
現わしていない。
他の地域との分別のための
記号であり、名前に過ぎない。

けれど、この単純な言葉に
時代の気分やあらゆる言いようの無い
不安や不満が流れ込んだのだ。



「フクシマ」、、、、
この言葉に、人々はすでに
深い内省や希望の端緒を読み取ろうとはしない、

さらに単純化され、記号化された
「フクシマ」に、
思考は無化され、踏むべき段は飛ばされ、スキップして
そう云うもの、として
言葉の中に放り込んで、何もかも投げ込んで
省みようとしない、、、
途方にくれていた人々には、ちょうど良い
隠れどころだったのだ。



人々の共同の思念は
こうして、表象化された言葉に逃げ込む。

やむにやまれぬ
共同の心が生み出した時代の処方だったとも言える。



けれど、
この「言葉」に乗じて
自分の尻拭いをせずに
厄払いをしようとしている一群の人たちがいる。


町内や自治体で
執り行なう「どんど焼き」みたいにして
どうにも手のつけようのないモノを
何もかもごちゃまぜにして、
放り込みに来る人々である、、、、。








posted by 身体気法会 at 15:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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