2012年04月16日

人が創り出したものを、人は、、、



大問題な、新型掃除機である。


5年ほど使った掃除機がついに、壊れてしまい
かねて、検討していた新型掃除機を購入した。

現在の掃除機事情と云うものは
大変なハイテク合戦のようで、
一時、席捲しかけたサイクロン方式が
紙パック勢の巻き返しに苦戦している
状況であるらしい。

紙パック方式の根強い人気の理由は
溜まったごみ処理の簡便さに
尽きるのであるが、
最新型は、強力な巻き返しを図るため
ハイテクを随所に詰め込んである。

購入した新型掃除機は、紙パック方式である。


吸引しようとする清掃面の塵芥をセンサーで
検知して、吸引力をコントロールする、
汚れが激しいと、ノズルの外枠が赤く点灯して
今、きわめて汚いところを、素晴らしく吸い取り尽くしてますよ!
と、誇らしげにサインを送るのである。

吸い込み口は、かなり重い。
ノズルやパイプも太く、いかにもタフな姿形である。
それだけで、以前使っていた
旧型の本体分くらいあるような感じである。

新型は、抜かりなく
この重量感を軽減するため
自走式と称して、吸い込み口にモーターを内蔵し
センサーによってコントロールされながら
自分で床面を進んでゆく。


これが、なんとも心地よい。
面白いのである、、、、

何か、フワッと浮かび上がるような感覚がある、
ガス充填の大きなバルーンを操ってるようでもあり、
トコトコ急いだり、寄り道したりの
犬の散歩をしているようだし、
何とも、生き物っぽい感じが楽しい。



掃除と云うのは、身体技法である。

掃除機といえども、
身体をどう捌くかと云うことが、
「掃除」を「祓い」にしたり、
「場つくり」に出来る
身体技法になるのである。


掃除は、場を整える。
チリやホコリを、掃いて除くだけでなく
辺りの気の質を、変える。

さっぱりした澄んだ空間に気が満ちている、
ザワザワした心は、静かになり
自分の中心に、自分が戻ってくるような
落ち着いた心地が生まれる。


その部屋に足を踏み入れた瞬間に
ふと、感じ取れる、、
眺めただけで、何か安定感がある、、、
掃除は、そのような場に
空間をつくる身体技法なのである。


心地よく住み、楽しく語らい、
適当に不満を言っても包容されている、
集注した仕事をこなすのも、
予想外の出来事にも、むやみに慌てない心持ちで
対処できるのも、
どのような場に居るのかにもよるのだ。



ローテクの旧型を使いこなしていた以前は
まさに、この身体の捌サバきによって、
掃除を「掃除」と出来ていた。

ところが、この新型は
何とも、扱いづらい、、、。

自分で、吸引をコントロールし、
自分から早めたり、ゆっくり重点的に吸い込もうとする
自走の新型は、私にとっては相手任せである。

「ふき掃除をしたような」と云うふれ込みで
宣伝されているとおり、その吸引力は
世間の評判も高い。
しかし、きれいになった感じがどうも、
違う、、のである。


機械と云うものは、
いかに効率的にまた効果的に
目的をこなすか、と云う大命題に
能力と想像力をつぎこんで
形になしたものである。

目的は、その時代、時代の価値観を反映する、
今は、便利で快適で簡単に扱える!!が、第一である。

どんな人でも、
非力でも無頓着でも無造作でも、、
誰がやっても、きれいに仕上がるように
ハイテクが駆使されている。

ここに、「身体技法」は
つけいるスキがないようである、
「捌き」なんて、必要ないよ!というばかりに
いたれり、尽くせりに
キレイに仕上がるのである。


廃用性萎縮と云う、医科用語がある。

身体には、使わないでいると
不要であると判断されて、
能力はあるのに、機能が衰えてしまう、
萎縮して、退化してしまう
ひとつの、システムコントロールが
備わっている。

身体にとっては、無用な体力を使わないよう
集中力と瞬発力を温存するための
取捨選択なのだが、
簡便さと迅速、汎用性を第一とする現代生活にあっては
身体の大切な機能まで
使わないですむような暮らしぶりになってしまう。



「道具」と云うものの基本は、
身体の延長である。

身体の捌けるように、身体の能力を最大限に
発揮できるよう、工夫がこなされたものが
「道具」なのである。

身体を離れ、身体の能力を減ずるようでは
「道具」には、ならない。

身体の能力を知らず、知らず使いこなすような
「余地」が、そこになければならない。



自走式新型掃除機は、まだ
使い始めたばかり、、である。
つけいるスキのなさそうな「完璧さ」に
いかに、身体を捌けるか、
身体技法となせるかが、
コチラの技術の、ためされドコロである。

何も、そんなコトまでしなくても、、、
と、言われても
そうは、いかない、、のである。




人は、人の創り出したものによって、
常にさいなまれる危険をも
選択させられている。

いつも自覚して覚醒していなければ
生命を危うくさせられる問題が
そこには、内包されているのである。



posted by 身体気法会 at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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