2015年01月06日

無縁の距離





近在のホームセンターに久々に立ち寄ったところ、
店舗外の駐車場内にたい焼きの露店が
出来ていた。

車を止めてすぐ、目についたのである、、。

なぜか、鼻孔にふんわりした甘い餡の香りが満ちて
非常に美味しそうで、
たまらなく食べてみたい欲求がふと、心の奥に
わき起こるのを感じた。


この露店の位置が、まことに
絶妙なのである。

遠からず、近からず、、、

普通、店外の露店を出そうとする場合、
店の出入り口のすぐ端に店を開いて、
本店に入ろうとする客にアッピールしつつ、
記憶に焼きつかせて、出てきたところで
ふと思い出させて、購入の意欲を誘おうというのが
常套手段で、まあそこそこの
客を得るものである、、。

これが、スペースがあるからと云って
出入り口より少し離れた駐車場まで
退いてしまうと、まったく客の関心を引くことができない、、
存在さえ発見されない危惧さえあるというのが
一般的なビジネスコンセンサスといえるのだが、

このたい焼き屋は、
駐車場敷地に入る寸前か入り口間際に位置して、
しかも店表が主役たるホームセンター側に向くのでなく、
かといって駐車場の客を迎え入れるかのような方向を
向いているわけでもなく、
そのどちらでもない真横を向いている、、、

このたい焼き屋の、常道を半歩踏み越えたこの立地に
疑問が起こりつつ、しかし何かどこかに気を惹かれる何事かが
潜んでいるようで、心に引っかかる、、、。


結局、この半歩半離れのたい焼き屋のマジックに
かかって、目的の買い物を済ませた後、
たい焼きを一つ、買ってしまった、、、。

後ろを見ると、ぞろぞろあとから
買いに来る人がひっきりない、、。
なかなかの繁盛ぶりなのである。


人には、このような目立たない
わざと自分の存在を奥まらせて、
控えめなのか、反抗的なのか
掴みにくい、こような立ち位置に
どこか、惹かれる何かがあるのだろうか、、、、


日本中世の昔、、
無縁所という境域が存在していたといわれる、、
現世の境遇や利害から縁を切り、ドロップアウトして
逃げ込めるアジールのような領域であったといわれる、、

網野善彦が、日本歴史の周縁に影のように押しやられ
埋没させられていたものに光を当てたのが
その存在が認知された始まりだと知られている。

芸能や技工、神事の式法をなりわい事とする人々が
この周縁に追いやられた叢民の中心に存在し
いずれもこの目に見える現世の世界にあって
正体の知れない向こう側の、見えない境域の技能を
操る人々なのである。

音楽や舞や療術、祈祷や卦読み、金打ちなど
この世ならぬ何処の奇芸なのであり、
同座してはならない神人、鬼人なのである、、、。

しかし、表の世界からいつでも誰でも逃げ込める
この周縁の領域世界は、無縁でありながら誰でもが
ソフトランディングし得て、フラットな自己でいられる
世界にゆるやかに開かれた「無縁」でつながれた
唯一の境域ともいえる、、、

虐げられつつ畏れられ、見下げられつつ重用され、
遠くに追いやれながらいつでも傍らに控えているという
暗くおぼろげで顔の見えない「影」の人々であるこの
無縁の民は、自己存在を打ち消されながら、けれど
伏せた体躯と背けたまなざしで、表の人々の心臓を
がしりとひっ掴んで繰り出せる人々なのである、、。


自らを虚しくし、必ず近くで控えて居り
けれど火急の時には、いち早く事を動かす、という
この影のごとき「距離感」を
日本人はことのほか好む。

この無縁の距離が
「整体操法」の骨子なのであり、
操法者は、どこまでも無縁の住人であること
を数回に渡り展開していこうと思う、、。



※本稿は、2015年1月に書かれたものです。
 再び公開しつつ、続論を展開しようと思います。















posted by 身体気法会 at 08:45| Comment(0) | 心と身体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月02日

映り込む風景





元日の朝、ひょんなきっかけから
数キロの道を歩くことになった、、、

日本には、よくある風景である。
山があり、民家があり、茶畑の畑もちらほら続く、、
舗装道路だから、凹凸の無い平たんな道であるけれど、、
クッション性が弱いから、じきに膝に負荷が真直にかかってくるのが
感じられる、、、

静岡の元旦は穏やかな日和である、、
まだ、多くの人たちが寝床の中から起き出したばかりの頃なのだろう、、
日の光は柔らかく、
人々の忙しげな動きは、辺りの空気の中には感じられない、
静かで、昨日までの年末の喧騒はすっかり仕舞い込まれた感じである、、。

寝不足のぼんやりした頭だけれど、
鳥の声も、ちょっとした木のさやぎも、
わずかに漏れ出した人家の生活音の一音も、
騒がしさが、全くなくて、遠くの向こうの方から
耳の中に忍んでくるように、じんわり入りこんで来るのが判る。

人は、歩かなければ
風景を感じられない、、

歩く速度で移動しなければ、
風景から隔絶されるのである、、

自転車がギリギリの速度なのだろう、、、

遠く、連なって退いてゆく
風景に目をやる、、

面白いもので視点が移れば、聴覚も遠く向こうの
微かな音にも反応してゆく、、
あらゆる世界の音が、私の中に流れ込んでくる、、
しかし、そのどれもが静けさの中に浮かんだ音だ、、。

視覚と云うものは、唯一遠近感を感覚させてくれる。

聴覚であっても、嗅覚であっても、奥行きの狭い、すぐ側らのものと
感覚される、、方向もはっきりしないし、相当に惑わされて眩惑的である。

人は視覚のみで、遠い、広大にひろがってゆく世界を感覚しているといえる、、
世界は視座によって、形づくられ、存在しているともいえるのだ、、。

向こうの向こうの山のラインの力感を形づくっている木の枝のさやぎが
すぐ間近でさやいでいるように思う、、
ただただ広い世界のはずなのに、歩いている足音は
森のさやぎと響音する、、

一体感と云うのでなく
一帯がひとまとまりに、私と同位していると云う感覚だ、、。

自分を取り巻く世界は、外環境としてあると云うより
自分に向かって一切がなだれ込み、流入してくるものなのである。


アフォーダンスと云う認知心理学がある。
環境認知科学と云うか、、、
従来の環境から受けた刺激、光や音等の情報を
脳が再構成して環境として認識すると云う認知論でなく
環境の側に存在する「行為の可能性」が提供アフォードされることで
自分と環境との関係性が築かれるというものである、、。

たとえば、よく使われる例に
「切り株」に座る、というのがある。
切り株に椅子代わりに座るのは、
切り株が「座る」という行為をアフォード(提供)したと解釈する。

座るという機能のために作られた椅子ならともかく
「切り株」を椅子に見立てたのは
行為者の発見でなく、切り株の中にある行為の可能性の
反射であるという認識論なのである、、。

子供たちが、自分を取り巻く環境の
意味や価値、道具に付与された目的性に無知であるがために
意味の中でしか行為を限定できない大人たちを
あっと言わせるような使い方をするのも
彼らが、放縦で気ままで未熟であるからでなく、
環境の中にある行為の可能性にアフォードされた結果であると
見るのである。

それは、たとえば猫たちが
紙袋や段ボール箱があると見るや、すぐに
潜り込もうとするのと、同じなのであろうか、、、
紙袋や段ボール箱に潜在する行為の可能性に
猫たちの本能的な「狭いとこ好き」な習性が
喚起されて、あっという間に行動としてアフォードされたと
いうのであろうか、、、


非常にわかりにくい理論なのである、、、
けれど、東洋人というか日本人の心性には
さほど驚きを感じない理論的世界とも思える、、、
原文オリジナルの理論を読むと、実に混み入っていて
理屈っぽいだけに感じられるが、、

元来、西洋哲学と云うものは
非常に感覚的にも理論的にも
東洋人ないし日本人には、同調しがたいモノなのである、、
ハイデッガーの翻訳や紹介で有名な木田元の
「反哲学入門」など一連の西洋哲学の反証的考察には
このような哲学の判りにくさ、とっつきにくさを
非常に素直に吐露して考察をしている。
哲学は日本人には理解できない、と結論付けているのである、、。

これは、哲学と云うものが
論証学であり、その道筋のみに拘泥して、身体の感覚を伴った
つまりは五官からくる心象的な全体感を欠くためであろうと
推察される。

東洋的にアフォーダンスを紐解けば
それは、たとえば漫才のネタにある
「孫の服が小さくなったので、この間デパートに
新しいのを買いにいったんや、、」
と言うと相方のぼやきの突っ込み役が
「孫の服が、勝手に小さくなるんかい!
ほっとくと知らぬ間に縮んむんかいっ!!」
と突っ込む。
「そうではなくて、孫が大きくなったので
今までの服が小さくて合わなくなった、
それで買いにいったんやろっ、、」と
言うのである、、。

これを、非常にねちねちと
粘っこくボヤキ口でいうので
可笑しみや面白さが出るのだが、
この日本語のある種の省き方、論理の飛びようが
面白さの核であるには違いないのだ、
この孫の服が小さくなったので、、という
言葉の背景に、実はきわめて日本的なアフォーダンス的な
感覚を読み込めるのである、、。

孫が大きく成長したので服が合わない、のでなく
服が「小さく」なったと表現する、、
この服の方に中心軸を持っていく実感的な捉えかたの中には
外界や環境によって、自分は自分たりえている、と云う
体感覚が潜んでいると云えるのである。

周りからどう見られるかが行動の起点となり、
「おてんとうさまが見ているから」と
誰もいなくても、自分を規制できるのも
自分は「誰のだれ坊」と自分を紹介するにも
それは、自分自身の証明である必要がなく
どこに所属し、誰の家のものかを紹介して
事足りるのも、
環境や外世界によって自分は規定されているという
体感覚からくる「世界観」、「哲学」によるのである。



風景は、体感覚で捉えれば捉えるほど
私との一体感が強まる、、
皮膚で感ずる風や香りが、身体の奥の奥でうづくのである、、、

この時、中心点と感覚されている「自己」の位置は
俄かに裏返しのような感覚に代わられ、「自分」とは外側に裏返しになった
ものだと気付くのである、、、

以下、つづく、、、、






















posted by 身体気法会 at 03:04| Comment(0) | 心と身体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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