2012年03月16日

向かう先のたったひとつであること

生きることの無意味さに
打ちひしがれる日が続く。

生きることに意味は無い。
と、思うのである。

腰椎5番の力が抜けるほどに、
この憂愁、メランコリーに
悩まされる。

いったん、この想いに
はまり込んでしまうと
どうにも、いた仕方ない、、、

しかし、
どんなに冷静に考えても
生きてあることの、無意味さから
私達は、逃れられない、
と思う。

生きていることに
何か、意味があるのだろうか、、、
と、悶々と
問うのである。


けれど、この
深い穴底のような
闇が少し薄れてくると
生きることは
面白いな、
と、思う気持ちが
起こってくる。

生きることは、面白い。

生きてあることは、予測の付かない
展開の連続で、実に面白いではないか、
と、素直に思えても来るのである、、、、



しかし、予想の付かない、未来があるからこそ
生きるに値するのかもしれないが、
人生の無意味さが、だからといって
消え去るものではないのである。

ちょっとした、つかの間の
温もりの感覚は、
すぐに消え去り、
再び、果てなく続く地平のような
空しさに襲われ始める。

この感覚を
すくい取る、何か
本当に「救い」は、あるのだろうか、、、、


私達は、何処からか
生まれ来る、、、。

生まれて、数年の
幸福な期間を過ごせるのは、
ほんの6割位なのかもしれないが、
それでも、
無目的で、無分別な
思考と運動の時期は
誰にでもある。
無垢な幸福の時代である。

心臓の鼓動は世界が刻む鳴動と
明らかに呼応しているし、
その未来は、何処までも
自由に自在に開かれているのだ。
そこに生きる意味合いは
充満している、、、、

ひとつの要求のひとまとまり!として
私達は彼方より発生したのであり
携えられた可能性は、展開し
実現するために、
そこに形なしているのである。

しかし、
夢の大売出しがなされる思春期直後、
私達は、向かう先が
たった一つであることを知らされる。


私達は、金を稼ぎ、働き、
金を稼ぎ、頭を使い、
金を稼ぎ、動き回らなくてはならない。

利益が上がるように考え、
売れるようにしこしこ算段を
つけなければならない。

合法、非合法を問わず
すべての生産的な行動とは、
お金になることでなければならない。

現代世界は
ますます、このいびつさが
際立ってたち表われている。

「価値の独り占め」、である。
どんな、事象も創造活動も
たったひとつの価値に収束され
選別されて、消されてゆく。

私たちの生きる意味が
ひとつの価値に独占され、
その生殺与奪が
そこに握られてしまっている現在、
わずかに漏れる光りの
ごく小さな抜け穴に向かって
大量の意思や情動が
押し寄せて、はじかれてしまうのは
あまりに自明なのである。


19世紀に始まり、20世紀で絢爛と開花し、
21世紀の現在、
いびつな素顔をあからさまに
した金融資本社会。

砂時計の落ちてゆく
砂は、利潤であり利益であり
利権でなければならないのであり、
公益であっても
真理であっても
その細く狭い落とし口からは
はじかれてしまうのである。

視野を開き、
視座を広げれば、
原発にしろ、景気停滞にしろ
財政問題にしろ、
広く徳となる道筋があるのである。

しかし、目先の損を嫌い
既得権益を失うことを嫌がり、
人々の空の米びつの隅にわずかに残った
食いぶちにさえ
手を出そうとする、
この独り占めの価値体系は、
決して人々の益となる方向には
進まない。



向かう先は、たったひとつ
なのである。


まったく違う価値を持った
人々の息苦しさは、
いつまでも続くのだ、、、、、。



posted by 身体気法会 at 12:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月06日

命を動かすもの、蠢くもの

二月になって、ニャオワァンと言ったきり
家を飛び出し夜陰に消えてしまった
我が家の猫のハナテンが、
4日して帰ってきたと思ったら、
すっかり人相(猫貌)が変わってしまっていた。

猫にはまぶたの内側に瞬膜と云うものがある。

目を閉じると左右から張り出してきて
眼球を保護するのである。

目を開ければ、普段はすっと隠れてしまうものなのだが、
その白い瞬膜が、目頭から張り出したまま
引っ込まないでいる。

目が小さくなってっしまい、何とも目つきがおかしい、、、

猫には、ときどき
見られる症状のようで
猫の病気辞典に載っている。

けれど、眼病にともなって出てしまうもの以外
何か精神的な原因によると、
理由がはっきりしない症状のようである。


年が明けて以来、
彼は落ち着かない日々を送っていた。

ガツガツ食べ、プイと何処かに出て行ってしまう。

一日中、ソファか段ボール箱の中で寝ていた
頃とは、まったく変わって
何か、せかされたように
あちこち動き回っている。

彼を、突き動かすものは
何だろう、、、、


白い瞬膜にフチ取られてしまった
只者で無いような相貌は
この世でない非日常の世界に、
見開かれているようである。

彼は、生まれて
2年は経ている成猫である。

逞しくしなやかな体つきである。


1年目の春を過ぎてしばらくしてから、
ちょっと大人の身体になりかけて
近くにいたおばさんやらおばあさんに当たる
メス猫に、
近寄っていったが、
すでに季節は去ってしまっていた。

彼女らのお腹にはすでに
命が宿り、
まったく相手にされず、
ふうふうと、あからさまに怒られて
近寄っては、追いやられして
つかの間の遅れた春を
悶々と過ごしたのであった。


しかし、
この春の彼のただならぬ勢いは
まったく去年とは違う。

この辺りにメス猫は少ない。
去勢されて、家の中にいたりして
オス猫たちの争奪競争の
涙ぐましい努力が、思いやられる。


目と云うものは、
骨盤の動きに関係している。

開き縮みに関連し、
骨盤神経の動きにも連動している。

骨盤の最も大きな動きを要するものは
性的な運動である。

性を果たすには
十分な縮み運動がタメられなければ
ならないし、
果たしたときには、
大きく開くのである。
そして、深い眠りに落ちてゆく。


このタメの縮みがうまくいかず、
片側が開いたままで、なかなか縮めなかったりすると
性的衝動は、食欲に
転化される。

食べても食べても
食べたくなる。

縮み、タメが十分で
まったく問題が無くても、
相手にめぐり合えず、そのまま
ずっと悶々としてもだえながらも
なお、禁欲を強いられると
縮んだまま、勢いが抜けてゆく。

衝動が枯れ、
性的エネルギーは睡眠に転化され、
ひたすら眠たくなる。

しかし、
縮んだままで
硬張り、動かない骨盤は
目を一回り小さくし、
異様な光りを灯す。

暗く陰鬱にさせ、
かさかさした皮膚と心に
変わってゆく。


二月の終わり、
彼の瞬膜は赤く腫れただれて
涙目でぐしゃぐしゃになってしまった。

ほとんど閉じたままのような
両目には、でも暗い光が
あいかわらずチロチロ燃えくすぶっている。


食欲にも、底なしの眠りにも
転化しきれない
彼を突き動かすものの
むやみで混沌として、
際限の無いエネルギーに驚く。

キワを超え、加減を知らず、
ただただ、無放縦に蠢く
突き上げる強力な「力」に驚く。


私たちの
虚栄もひたすらな頑張りも
大げさな感激も
自惚れも
無鉄砲な勝負も
この、
混沌としたカオスのごとき
エネルギーによるものである。

しかし、
生命を輝かせ、その息吹を
途絶えさせない
永遠性を希求するものでもあり続けるのである。

死への
導き手でもありながら、、、、


昨日、5日ぶりに
戻ってきた彼の目は
元のようにすっかり、きれいに戻っていた。
出ずっぱりの瞬膜は
まぶたの内側に納まり
大きく透きとおった無垢な目を
取り戻したのだ。

無事、果たすことが叶ったのか
消息は知れないけれど
彼の短く、けれどせん無い
春は終わったのである。



posted by 身体気法会 at 11:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする